コラム

杉山孝男の人間学-24

我が人生を、卑下するなかれ!

(2017年6月1日号掲載)

今思えば滑稽ですが、三十年前の坐禅中に「我が胸内(きょうない)に大気あり。天地自然界の大気と同一なり」と気づき有頂天になりました。大気とは万物を生成する空気や生気です。

坐禅は姿勢と呼吸を大切にします。特に臍下(へそした)三寸の丹田を意識し、静かに深い丹田呼吸をしますが、実際の空気の流れは鼻と肺による呼吸となります。

当時は「随所(ずいしょ)に主(しゅ)となれば、立処皆真(りつしょみなしん)なり」(臨済義玄(りんざいぎげん))などの禅語に取り組み中でしたから、自宅の早朝坐禅や満天の星空の下の中田島海岸でも坐禅をしました。ある時「自分が吸う前の自然大気と、吸った後の体内空気は、何処で区別するか?」が大問題になりました。考えてみれば体内空気は自分領域であるが、その空気は一日三万五千回も自然領域から出入りしているのです。これに気付いて冒頭句になったのですが、別表現をすれば「太古からの天地自然の営みが、我が体内にあり」(巌海(がんかい))となります。はかない八十年の寿命であると思っていた自分が、実は「天地自然界に 繋がる一微粒子の命」であるという大発見ですから、興奮し感激しました。

以後、自分の度量にも変化が生じ、①一限人生八十年に執着する我欲意識は薄れ、②七百万年続く人間種族を支える一匹の命の意識が芽生え、③天地自然界を形成する一微粒子の自覚が育ち、次の句が生まれました。

「我らは、天地自然界の一微粒子なれども、卑下するなかれ。なぜなら我ら一微粒子が集まり、天地自然界を形成するからである。万物の霊長たる人間一匹の生きる誇りは、ここに生ずる」(巌海)