教育

歴史から浜松を学ぶ

三方ヶ原の戦いで、家康は何を学んだのか?

(2014年10月23日号掲載)

元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図(浜松市博物館蔵)

戦にボロ負け、敗走中に小豆餅を無銭飲食しておばあさんに追いかけられる――。浜松に残る伝説の中の徳川家康は、なぜだかイマイチぱっとしない。

今週末に開催される「家康公祭り」は、そんな従来のイメージを払しょくし、浜松を守るために戦った徳川家康を広くアピールしようという試みだ。
「のちに天下人になる家康ですが、浜松時代は失敗も多く、人間的に大きく成長する期間でした。イベントでは演劇や演舞を通じ、家康の真実の姿を市民のみなさんに伝えたい」と総合プロデューサーの秋元健一さんは話す。

演劇の脚本は歴史学者の磯田道史さんが監修。史実に基づいた“知られざる”徳川家康が描かれるという。ここではその一部をピックアップし、家康が三方ヶ原合戦を通じて学んだことを紹介しよう。

一、守るために戦う

元亀3年(1573年)、三河侵攻を目指す武田信玄の大軍が浜松に押し寄せる。この時、家康のもとに、同盟相手の織田信長から「浜松を捨てて三河へ戻れ」というアドバイスの手紙が届いた。だが家康は強敵にひるむことなく「浜松を去るぐらいなら武士を辞める」と言い放ったという。自分だけ故郷の三河へ逃げるのは、遠州の人々の信頼を裏切ることになると考え、戦うことを決意したのだ。

二、敵の不幸を喜ばない

三方ヶ原の戦いが終わった後、武田信玄は遠征途中で死去。知らせを聞いた家康の家臣たちは喜びに沸いた。ところが家康は「信玄は我らにとって武略の師であった。彼の死は喜ぶべきことではない」と家臣をいさめたという。強敵が近くにいたことで、自分たちも強くなれたのだから、むしろ信玄には感謝すべきだと考えたのだ。

三、負け戦から学ぶ

それから27年後。関ヶ原の戦いにおいて、家康は石田三成率いる西軍と激突する。この戦いで家康は「魚鱗の陣」と呼ばれる陣形を採用した。実はこの布陣、三方ヶ原の戦いで信玄が採用し、徳川軍がコテンパンにやられた戦法。家康は過去の苦い経験を生かし、天下分け目の戦いを制したのだ。

第1回 出世の街 浜松家康公祭り

演劇「三方ヶ原合戦絵巻」や酒井の出世太鼓、鉄砲隊、パフォーマンスアートなどが披露される。「第6回 家康楽市」と同時開催。駐車場はないので、公共交通機関の利用を。
日時 10月26日(日)10:00~16:00
会場 浜松城公園
実行委員会 TEL.053-458-0011