シリーズ63 浜松市制100周年(29) 復興に立ち上がる
市制100周年を迎えた浜松がどのように発展してきたのかを紹介するシリーズ。今回は終戦直後の浜松の様子をお伝えします。
焼け跡のアカシアに若葉 子供たちの笑顔が復興の源
米軍の空襲を避け、また被災し郊外(※)に疎開したのは7000世帯、3万2000人。最も多かった疎開先は北浜村で486世帯、以下、赤佐村、中川村と続きます。これら疎開者も昭和20年(1945年)8月15日の終戦後、次第に浜松市内に戻り始めます。
浜松の中心市街地は焼き払われてがれきの山。8月24日、北国民学校の鈴木良先生は疎開先の天竜の山奥から池町の焼け跡に帰ってきました。先生は戦前から戦後にかけて克明な日記を付けていましたが、この日はアカシアの若葉について触れています。神明町の坂道の両側で焼けただれたアカシア、その黒い幹の根元から出た数本の枝に若葉がぎっしりと出ていたのでした。先生はこの並木の芽吹き、樹木の活力に感動、復興に立ち上がったと記しています。
9月には栄町に復興住宅の見本が完成。たった6坪(土間4畳+部屋8畳)でしたが、市民は小さな家の建設にとりかかり、家のない人たちの一部は防空壕に住みました。同月来浜した米国カメラマンは焦土の浜松市内を数多く撮影、その写真集「WWⅡ−日本の敗戦」は浜松市立中央図書館にあります。それを見ると焼け野原に多くの人々が生活し、駅では何百もの人が食料の買い出しなどのために列車を待ち、それと同数の人が駅に到着、大変なにぎわいだったことがわかります。また、写真には人々のたくましく明るい表情が。先述の鈴木先生は昭和21年(1946年)1月26日の日記に「…遊びほうけている少年少女の軽快明朗な風姿と双頬に漂ふ元気な笑顔」が今一番美しいと記し、「この笑顔の内にこそ将来平和・文化・道義日本を打ち建てる力」があると結んでいます。衣食住すべてに困難な中、市民の懸命な努力とアメリカの援助で浜松は復興していくのです。
※当時の浜名郡と引佐郡
(協力/浜松市史編さん執筆委員 鈴木正之さん、写真はともにジョン・スウォープ撮影)













