シリーズ62 浜松市制100周年(28) 戦争と浜松 3
市制100周年を迎えた浜松がどのように発展してきたのかを紹介するシリーズ。今回は浜松大空襲についてお伝えします。(2012年1月26日号掲載)
空襲と艦砲射撃で中心部は壊滅状態に
サイパン島は今でこそ気軽に行けるリゾート地ですが、太平洋戦争を経験した人たちにとっては悪夢の島でした。昭和19年(1944年)6月、日本軍が拠点としていたこの島にアメリカ軍が上陸、激戦の末に日本兵3万人と民間人1万人が犠牲になりました。アメリカはここを基地として日本本土への空襲を開始、11月には東京が爆撃されます。浜松への初空襲は同年12月13日。B29一機が来襲し、焼夷弾(※)約600発を投下、これにより相生町や佐藤町などで家屋全焼は41戸を数えました。昭和20年(1945年)1月は3回の空襲、中でも19日には大型の爆弾が投下され、今の蒲地区では4名の死者が。3月には東京や大阪が大空襲を受け、東京では23万戸が焼失、死傷者は12万、罹(り)災者は100万人を超えました。
4月30日、浜松にB29約70機が来襲します。この日は1000発以上の爆弾が落とされ、970余名が死亡。中には防空壕に退避していた一家7人が、大型爆弾の直撃を受けて亡くなるという悲劇も。そして、運命の6月18日、アメリカ軍はB29約80機で来襲、6万5000発の焼夷弾で浜松の町を焼き払いました。これが浜松大空襲と呼ばれるもので、死者は1150人を超す惨事となりました。この時焼失した家屋は1万5000戸余り。7月29日には遠州灘のアメリカ軍艦からの艦砲射撃があり、800発以上の爆弾が今のJR東海浜松工場や浜松駅、静岡大学浜松キャンパス付近まで到達、多くの犠牲者が出ました。軍隊と軍需工場が多かった浜松は27回にもおよぶ空襲と艦砲射撃を受け、市街地の大半は焦土に。そして終戦の8月15日を迎えたのでした。
※家屋や工場などの焼失、破壊と火炎による人員殺傷のため油脂類を詰めた爆弾
(協力/浜松市史編さん執筆委員 鈴木正之さん)













