シリーズ58 浜松市制100周年(24)日赤病院と市営運動場
市制100周年を迎えた浜松がどのように発展してきたのかを紹介するシリーズ。今回は海外で活躍した経歴を持つ大物、第8代市長の話です。 (2011年12月8日号掲載)
日本赤十字社の診療所を誘致 市民が集えるグラウンドも
度重なる市議会の紛糾を不快に感じ、第7代の高柳覚太郎市長はわずか1年半で辞職。その後4カ月余りは市長不在のままでした。新たに選出された市議会は、若く優秀な市長を外部から招くことにし、内務大臣にあっせんを依頼。やってきたのが横光吉規(よこみつよしのり)でした。彼は明治21年(1888年)に今の大分県宇佐市に生まれ、東京帝大政治学科を卒業し、台湾総督府の役人を経て台南省の知事も務めた大物。第4代渡辺素夫市長同様、いわゆる輸入市長(※)で、第8代市長に就任したのは昭和10年(1935年)2月8日でした。
横光は浜松を発展させるには市域の拡大以外にないと判断、東は天竜川、西は浜名湖まで浜松市にしようと考えました。そして就任の翌年(1936年)には曳馬町と富塚村を、昭和14年(1939年)には白脇村と蒲村を合併。この年に人口は17万8000人に達したのです。
海外で仕事をこなしてきた横光が「浜松にぜひ作りたい」と考えたものの一つが、公的な病院でした。横光は日本赤十字社に病院の設置を依頼。同社は昭和12年(1937年)に日本赤十字社静岡支部浜松診療所の開設準備に入り、市が寄付した浜松市高林町の1152坪の土地に翌年完成したのです。
次に考えたのが多くの学生や市民が一堂に会することができる市営グラウンドの設置でした。ギリシャの競技場をヒントに三方原台地の斜面をスタンドとした浜松市営運動場が上島町に完成したのは昭和15年(1940年)のこと。この工事には市内の中学生が勤労奉仕という形で協力、1万数千人を収容できる壮大な市営グラウンドが生まれました。
※有能な人物を外部から迎えて市長とすること
協力/浜松市史編さん執筆委員 鈴木正之さん、写真提供/浜松市立中央図書館













