直虎の事件簿

直虎の事件簿 File.7

新野左馬助(にいのさまのすけ)討死事件

(2017年7月6日号掲載)

今年の大河ドラマのヒロインは井伊直虎。戦国時代、井伊家に起こった事件を"現場検証"しながら、直虎の足跡を訪ねてみよう。今回は御前崎市新野にある井伊家目付家老・新野左馬助ゆかりの地を巡った。

井伊家を救った大恩人「情けの武将」の足跡をたどる

新野村3000石の地頭だった新野左馬助 ©光山房

御前崎市に新野(にいの)という名前の地域がある。その名の通り、ここは井伊家の目付役家老として活躍した新野左馬助のふるさとだ。新野氏が拠点を構えた舟ヶ谷の城山や、左馬助の功績を紹介する展示館など、左馬助の足跡が分かるさまざまなスポットがある。

左馬助は、直虎の伯父に当たる人物だ。妹が井伊直盛に嫁いだのを機に、自身も目付として井伊谷に移り住むことになった。目付とは、配下の一族を監視する役目のこと。もともと今川家との関係が深かった左馬助は、井伊谷の動向を駿府に報告する役割を担っていたのだ。

監視役というと、冷徹で疑り深い人物をイメージしがち。ところが、左馬助は忠義に厚い「情けの武将」として現在まで語り継がれている。

天文13年(1544年)、井伊直満・直義が謀反の疑いによって今川家に誅殺された。この時、直満の息子・亀之丞(後の井伊直親)は、身を守るために引佐町渋川にある東光院へ逃げ込んだ。実はこの寺の住職だった能仲和尚は、左馬助と同郷の新野生まれ。このことから、亀之丞の逃亡成功の裏には、左馬助のサポートがあったと考えられている。

さらに、永禄5年(1562年)、井伊直親が今川の命令によって暗殺されると、その息子・虎松(後の井伊直政)にも危険が及んだ。この時も左馬助は虎松の助命を嘆願し、自宅に庇護することで命を救ったのだ。つまり左馬助は、井伊家当主を二代に渡って救ったことになる。

その2年後、左馬助は井伊家の重臣・中野直由とともに引馬城攻めに出陣し、討ち死にしてしまう。新野の名前はその後、今川家の没落とともに、一度は歴史から消える。ところが、幕末の天保13年(1842年)、新野氏は突如として復活を遂げた。

幕府の大老・井伊直弼の兄に当たる木俣中守が、左馬助の功績を称え、新野の名跡を相続。新野親良と名を改めたのだ。新野氏に対する感謝の思いは、280年の間、井伊家に脈々と受け継がれていたということになる。この時、左馬助の墓を再興したのが、現在の左馬武神社だといわれている。

左馬武神社

左馬助の墓と伝わる五輪塔が祀られている

舟ヶ谷の城山
新野左馬助公展示館

取材協力/新野左馬助公顕彰会