直虎の事件簿

直虎の事件簿 File.9

"男女共になで斬り" 堀川城の壮絶な戦い!

(2017年11月9日号掲載)

今年の大河ドラマのヒロインは井伊直虎。戦国時代、井伊家に起こった事件を"現場検証"しながら、直虎の足跡を訪ねてみよう。今回は徳川家康が攻め入った気賀・堀川城の周辺を歩いた。

浜松市の細江町・気賀にある「おんな城主 直虎 大河ドラマ館」。全国から大勢の人が訪れるこの施設の南西側に、かつて堀川城と呼ばれた城跡がある。ここは徳川家康の軍勢と、それに反抗する住民たちが戦いを繰り広げた場所として今に伝わっている。

永禄11年(1568年)、三河の徳川家康は、今川領を奪取するべく、遠江への侵攻をスタート。遠江の多くの国衆は家康に服従したが、浜名湖周辺を拠点にする大沢氏は徹底抗戦の構えを見せた。大沢氏の支城である堀川城にも、多くの地侍や農民が立てこもり徳川軍に反抗した。

翌年、家康は反抗勢力を一掃しようと、3000の軍を率いて堀川城への攻撃を開始。当時の堀川城は、都田川の支流や湿地帯など天然の要害に囲まれていて、満潮時には徒歩で近寄ることができない堅固な城だったという。

このやっかいな城を攻め落とすため、徳川軍は一策を講じる。城の南東にある山に陣を敷き、干潮のタイミングで攻撃を決行したのだ。さらには、藁を地面に敷き詰め、ぬかるみに足を取られないようにして巧みに攻め入ったという。結果、堀川城は落城。徳川軍は抵抗する男女約1000人をなで斬りにしたといわれている。

さらに悲劇は続いた。城を逃げ延びた人々も次々と捕らえられ、約700人が打ち首になったのだ。処刑場所は今も獄門畷(ごくもんなわて)という名で伝わっている。当時、気賀の人口は3000人といわれているから、半分以上が徳川勢によって命を落としたということになる。

「鳴くまで待とうホトトギス」の句のように、我慢強いイメージのある徳川家康が、なぜここまで過激な行動を取ったのか?一説には家康が気賀を通る際、何者かに命を狙われたからともいわれているが、真相は謎のままだ。堀川城の跡地周辺には、城主の新田喜斎や、尾藤主膳・山村修理ら徳川軍と戦い抜いた武将たちの墓が点在している。

堀川城趾
獄門畷

取材協力/奥浜名湖観光協会、曽布川保さん(浜松市観光おもてなしガイド)