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浜松のルーツ発掘 いざ!遺跡を巡る旅へ
浜松に1000カ所以上あるといわれる遺跡の数々。古代の人々の生活をたどることで、脈々と受け継がれてきた大地の恵みや地域の文化が見えてくるのではないでしょうか。市内各地に散らばる遺跡を巡り、浜松人のルーツを探る旅へ出掛けました。(2011年4月14日号掲載)
遺物は貝塚の賜物(たまもの)
浜松市中区蜆塚。今から約3500年前、ここは縄文人の暮らしが営まれていた土地でした。現在の雄踏街道付近から南はすべて海。佐鳴湖は入り江になっていたと考えられており、そこで魚や貝を採り、森で獣を狩っていたのです。
県内唯一の環状貝塚を有する蜆塚遺跡はそんな当時の人々の生活を伺い知ることができる国指定史跡。地名の由来ともなったシジミの貝塚が展示されているほか、広場には当時の家が復元されています。集落の広場を囲むように積み上げられた4つの貝塚は、言うなればゴミ捨て場のようなもの。貝のほかにもコイやフナ、鹿、猪、ツル、キジなどの骨も出土し、縄文人の食生活が伺えます。人骨を含め多様な遺骨が得られたのは貝に含まれるカルシウムが骨の酸化溶解を防いだためといわれています。
蜆塚遺跡の時代から1000年後。徐々に海面が下がり、それに伴い人々が次第に低地へ下りていきました。砂丘にできた水たまりを利用し、米作りを始めたからです。台地の崖下に位置する伊場遺跡は、静岡の登呂遺跡に匹敵する当時の代表的な集落。周辺には梶子遺跡、城山遺跡、鳥居松遺跡などがあり、室町時代までのさまざまな遺物が出土する複合遺跡として知られています。

新生博物館に古代の名品が
伊場遺跡には環濠(かんごう)の一部が保存されています。環濠とは集落の周辺を囲むように作られた水堀のこと。米作りが行われるとともに土地や食料を巡る集落同士の争いが起こったため、敵の侵入を防ごうと設けられました。さらにこの地では木製のよろいや銅の矢じりなどが発掘され、鍬(くわ)や鋤(すき)、豊作を祈る祭りに用いられた銅鐸の一部など米作りに関連した道具が多く出土しています。
また、古墳時代には伊場から北西3kmの場所に直径42mの大きな円墳が造られました。これが現在の入野古墳です。この墓は当時の伊場エリア近辺を治めていた人物の墓だと考えられています。
これらの遺跡から発掘された遺物は蜆塚遺跡の隣にある浜松市博物館で見ることができます。同博物館は先月リニューアルを行い、黒を基調としたシックな内装に生まれ変わりました。引佐で発掘された34万年前のワニの化石や、鳥居松遺跡から出土した金銀装円頭大刀(きんぎんそうえんとうたち)が目玉として展示されています。博物館で古代の品々を見ておけば、遺跡巡りがさらに面白くなること請け合いです。
市内屈指の古墳スポット
浜北エリアを行く
浜松市内にある古墳は約1700基。浜北地区はその中でも主要な古墳が密集するスポットです。古代の墓を探索しに行こう。


渡来人の墓からスタート
かつてこの地で力を振るった豪族や家長を葬るために築かれた古墳。浜北区内野台には約2kmで4つの古墳を見ることができるお手軽コースがあります。古墳初心者はまずここを歩いてみるのがお薦め。
スタート地点は二本ヶ谷積石塚群(にほんがやつみいしづかぐん)。通常古墳は土で造られたものが一般的ですが、ここで見られるのは丸い石を積み上げてできた四角形の古墳です。全国的に珍しく、谷底にあるというのも変わっているポイント。県内ではここでしか見られません。朝鮮半島の積石塚と似ていることから渡来人の墓ではないかと考えられています。
広場を後にして住宅地を南へ行くと、かつてこの地を支配していた豪族の墓といわれる赤門上古墳があります。全長56.3mの規模を誇る4世紀後半の前方後円墳。この古墳からは中国大陸からの舶来品といわれる銅鏡・三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が発掘されました。同じものが近畿地方でよく出土されることから当時のヤマト王権と政治的な関係があったのではと考えられています。そこから北へ進むとコース内の古墳の中では一番新しい山の神古墳や、円墳では市内最大級の稲荷山古墳があり、1時間程度ですべて回ることができます。

北麓(ほくろく)古墳群で
石室(せきしつ)ウォッチ
次は少しマニア度アップ、浜北北麓古墳群へ。このエリアの古墳は石室に注目です。石室とは古墳内部にある石でできた棺を納める部屋のことで、中を出入りできる横穴式古墳が多く点在しています。
まずは天浜線宮口駅近くの興覚寺後古墳へ。6世紀前半の前方後円墳で、天竜川平野右岸地域を治めた豪族の末裔(まつえい)の墓と考えられています。南側には巨大な岩で作られた石室の入り口がぽっかり。中に入るとひんやり涼しく、西側が若干広い作りになっています。これは片袖式といい横穴式古墳の中でも古い作り方です。
そこから東へ行くとほどなく高根神社の入り口が。山道を行くと神社に到着、さらに登ると高根山古墳にたどり着きます。この古墳は小さな円墳ですが石室がむき出しになっていて、中に入ると岩の間から光が漏れる神秘的な光景が広がります。
次は少し足を伸ばして根堅遺跡へ。旧石器時代の人類・浜北人の骨が発掘された石灰岩の巨大な崖を眺め、田村神社にある将軍塚古墳を目指します。田村神社社殿前の階段を下り、野山の草を分け入りながら下ること約200m。右手に直径14mの円墳・将軍塚古墳が現れます。石室の入り口が狭いものの、見つけたときの喜びはどの古墳より勝るかも。締めは農林大学校林業分校の近くにある向野古墳へ。ここの石室は高さ1.9mと大きく、中にも簡単に入ることができます。
どの石室も個性豊かで、それぞれ違った面白さがあります。これらの古墳から出土した品は市民ミュージアム浜北(浜北文化センター内)に展示されています。
神秘となぞに包まれた
奥浜名湖の聖地を巡礼
古代の人々は何を思い、何を祈ったのか—奥浜名湖に残る遺跡には、その手がかりを解くヒントが詰まっています。遺跡マニア垂ぜんの的ともいわれる地に足を踏み入れました。

古代人の精神性に触れる
後醍醐天皇の第四皇子である宗良親王を祭る引佐・井伊谷宮を神宮寺川沿いに西へ600m。地元の守護神として信仰される渭伊(いい)神社の社殿裏、ゆるやかな坂を登ると高さ7.4mをはじめとする巨大な岩の群れが出迎えてくれます。ここは古墳時代の祭祀場・天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡。古墳時代の人々はこれらの巨石に神が宿ると考え、信仰の対象としました。周辺からは祭祀に使われた土器や勾玉などが多数出土しています。
この遺跡は神宮寺川が平野部へと流れるのどぼとけに位置する地。そのため大地の豊穣を祈り、水の神をあがめる祭りが執り行われていたと考えられています。木々から漏れる光が岩を照らし、川のせせらぎが辺りを包む、まさに聖地というにふさわしい遺跡。引佐では4世紀初めごろに造られた市内最古の古墳といわれる北岡大塚古墳も見られ、古代人の精神性に触れる絶好のスポットとなっています。


細江・銅鐸の谷の謎
浜松を語る上で欠かせないのが「銅鐸」。弥生時代の青銅器で、主に豊作を願う祭りの道具として使われました。浜松では全部で24個の銅鐸が見つかっており、銅鐸の出土地点数は全国1位を誇ります。そのうち細江にある滝峯の谷の斜面からは9つが出土。この谷は銅鐸の谷と呼ばれ、滝峯才四郎谷(たきみねさいしろうや)遺跡・銅鐸公園では発掘調査地の様子を再現した銅鐸のレプリカが展示してあります。
この地で発掘された銅鐸は「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」で鑑賞することができます。銅鐸には大きく分けて近畿式と三遠式の2種類あり、浜松では両方のタイプが出土。銅鐸は天竜川以東の地域ではほとんど見られないため、浜松は銅鐸をシンボルとした西日本勢力の東端に位置し、東国との国境にあたる要所であったと考えられます。
なぜ、細江の谷に銅鐸が集中して埋められているのでしょうか。隣国との境界にあったため、国同士の争いや天災を沈める目的で埋めたとも考えられますが、はっきりとしたことは分かっていません。銅鐸の謎に思いを巡らせつつ、歩いてみるのもいいかもしれません。
プロに聞く 浜松の遺跡の特徴とは?

天竜川が生んだ国境の文化に注目
浜松の遺跡の特徴に大きく関わってくるのが天竜川。この川が作り上げた平野に人が住み始め、弥生時代には伊場遺跡群をはじめとする集落がいくつも作られたのです。
川は国境の役割も果たし、浜松以東の地域とは人々の生活に大きな違いが見られます。例えば伊場遺跡には集落を守るため3重にわたって環濠が巡らされていますが、これは関西の文化圏の特徴。天竜川以東の集落では重ねて堀を作る習慣は見られません。また、銅鐸を使う祭りも西日本文化の特徴で銅のやじりなどの武器や土器の形も天竜川より東の地域とは異なります。
浜北には主要な古墳が集積していますが、これは天竜川右岸を基盤とする豪族が住んでいたため。特に積石塚の古墳は全国的にも珍しく、朝鮮半島から来た職人集団の墓と考えられています。浜北以外にも天竜には全長88.4mで市内最大の光明山古墳がありますし、磐田へ行けばもっと大きな古墳を見ることができますよ。
遺跡巡りの楽しみ方はさまざま。弥生時代や古墳時代など時系列の順番で訪ねていく方法や、一つのエリア内にある遺跡を集中して巡る方法などたくさんあります。博物館や資料館などで事前に知識を得た上で散策すれば、より理解が深まり遺跡の奥深さを楽しむことができるでしょう。
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